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「つかのまの愛人」フィリップガレル監督3部作

この映画のキャッチコピーを鑑賞後改めてみたとき、まったくもって的を得ていないじゃないの、と思った。「1人の男をめぐる女たちの奇妙な共犯関係」。予告編では「私の知らない私」とうたわれている。どこが?である。1人の男を巡っているようにみえないし、私の知らない私というものを感じているそぶりも見えない。彼女たちは同じ男を取り合っていないし、自分のことを分かっている。パパという1人の男を軸としている訳でもないのに、どうして1人の男をめぐるなんていうんだろう。物語の主役は女の子ふたりで、片方は自分をふった男の子に未だ焦がれているし、一方は恋人がいながらも他の男の子と体のつきあいをする。その対照的な彼女たちは、だけどそれぞれに魅力があるように思える。

 

ジャンヌという子は別れた元恋人を「あんなに人を愛したことはない」と泣き暮れ自殺未遂まで起こすほど。「この苦しみをあいつに分からせてやりたいの」と叫ぶシーンは、固定されたカメラワークからそれを眺める少しの冷たさと彼女の悲痛な感情が伝わってきて眩しかった。だって彼女はあまりに若い。「ばかな男に振り回されちゃダメ」と窓から飛び降りようとするジャンヌを必死でとめるアリアーヌという女の子は対照的に、一番愛して付き合っている人がいながらも(ジャンヌのパパである)、別の男の子とおあそびをする。関係は一度きり、彼女は自分の快楽のために相手を欲する。「まるで女版ドンファンだな」となじられたアリアーヌはひどいわっと泣きにはいる…。

 

 

ジャンヌのように1人の男の子を一途に考え続けるのも、またアリアーヌのように奔放に付き合っていくのも、どちらもはたから見ると滑稽なのに情緒がある。監督はこのアリアーヌという子を「色情狂的」だと言ったみたいだけど、この役を演じた女優さんは「そうじゃないと思う、彼女は自由で自分だけの秘密の領域をもっているだけ」と称した。わかる、と思った。彼女はただ自分のために寝てみたかっただけ。欲望、というにはなまやさしい彼女の浮気癖は、もう性質なんだと思う。浮気というか、それはたとえばチョコレートを食べるような、一瞬の甘美には逆らえないような、それだけのことなんだろうなと思う。だから彼女はジャンヌにおすすめしたんじゃないかな、「他の男の子と会うべきよ」と。いろんなチョコレートを試してみては?というようなことを。

 

 

夜のダンスシーン。2人の女の子がそれぞれ別の男の子とくるくるくっついたり離れたり囁き合ったりしながら踊る。音楽が綺麗。あと光も。ジャンヌとアリアーヌの表情が恍惚としているのも、それが男による効果だけじゃないことがわかる。

 

 

フィリップ・ガレル監督はこの作品で「女性の無意識」を扱いたかったみたい。ジャンヌのパパをめぐった、ジャンヌとアリアーヌの無意識によるライバル意識。間接的に攻撃をした一方による悲劇は、しかしまあそうなる運命だろうなと苦笑気味に納得せざるを得ない。監督は最後の締めくくりに、「こうした要素を理解することは実はそこまで重要ではありません」と言っていて(あ、そうなの?)、女性における無意識を扱うことが監督の課題だったよう。無意識に1人の男を女から遠ざけようとする心理。それは妬みとかだけではない、好奇心とか若さによる弾み、みたいなものもあると思うわけで、案外スッと自分の中に入ってきた。違和感なしで観れた。その意識を、わかる、と思う私はやっぱり女なんだなと思うと同時に、男の子ってそういうのはないのかなと疑問を持ってみる。

 

 

つかのまの愛人は、楽だろうか、寂しいだろうか、多分きっとそのどちらもで、一瞬の幸福があることはあるんだろうな、とも思う。それが自分1人だけのものでも。

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