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大学生やってます

私が旅をする理由

どうしてここにいるんだろうって思う、本当はどこでもいけるのに、どうしてこんなところにいるんだろって思う、別にいまのこの場所が嫌なわけじゃなくて、でもどこかへ行きたい、旅がしたい、いろんなところへ行きたいあそこに行きたいここに行きたい、て思うのに、それができていない、していないという事実、いまのその状況が、如何にもこうにもやっていらんなくて、私はとってもあたふたする。ある程度のお金があるのに、旅行なんてしようと思えばいくらだってできるはずなのに、どうして私はいまなにもしてないんだろう、ここにいるんだろうと悲しくなる。悲しくなってるのかさみしくなってるのか虚しくなってるのか、なってるとしたらどうしてさみしいのか、わからないけれど、兎にも角にも私は今すぐにでも旅をしたくなって、うずうずする、たまらなくなる、飛行機に乗りたい、あの何処へだっていい、ただいまのこの場所じゃなければなんだっていいとさえ思える。逃げたいことなんてないはずなのに、私は日常から逃げ出したくなる。逃げたい、と思うほど、私は自分を不自由だなんて思っちゃいない、思っていないからこそ、何処へでもいけるからこそ、だからこそなんでこんなところにいるの、と思う。

 

 

小学生から中学生の頃、私は集団がいやだった。みんなで集まって、みんなで何かしなきゃいけない感じ。みんな同じテンションでいなきゃいけない空気。ひとりが乱れると、みんなが宙ぶらりんになる雰囲気。たいしてやりたくもない鬼ごっこ、ドッヂボール、長なわとび、おしゃべり、私はいつも自分の居場所がないように感じて、まあそれは私自身の問題であったのだけれど、だって心から楽しめることがあまりに少ないから、それらに熱中するということがほとんどなかったから、だから私はうまく馴染めないと思っていたし、事実だれかひとりが抜ければほっとしたように傍観者側に回った。体育の時間、授業がおわるまで余ったから自由にしていいよと先生が言うと、決まってゲームをしだす友達の気が知れなかった。もちろん楽しいゲームなら嬉々と参加するけれど、いつもそんなテンションになるわけじゃない。第一、大勢で集まってなにかをするとなったらなかなかまとまらないのも常だ。そんなだらだらした時間を過ごすならなにもしない方がマシだ。私はリーダー性も副リーダー性も皆無なので、発言もしなければ支持もしないといったお気楽女学生だったのである。いまと変わりはないが、私はのんびりしていたかった。楽しいことを見つけても、だから少人数で事済ます方が多かったし、実際ほんとに楽しいことはひとりでも2人でも充分なのだ。大人数になればなるほど、その楽しさの面白さは薄まっていくのだ。

 

 

と、いまなら客観的にみえるけれど、当時は違った。私は自分が大勢のなかに入っていても、心から楽しんでいないことを重々自覚していたので、悩んだ。いっそのことその多数の輪に入らないでいたらどんなに楽か。かといって、今さら一抜けしてまで自分を貫き通す自信があったかどうかは、いま思い返してもなかったので、だから私はそのまま輪の中にいることを選んだ。選んだ結果、どうなったかと言いますと、違和感はさらに増しただけなんである。

 

 

そしてその違和感はしだいに私の欲望をはっきりさせていくこととなる。旅。「私がここにいること」を確固させたくなる。心から楽しめることを実現させたくなる。それが私にとっての「旅」であり、私の思う、求める、居場所なんだと思う。大勢の友達といても、私の居場所だと感じることができない。私が居場所を感じるのは、「旅行をしているときの自分」であって、思うがままに、私は私のために旅をしているときなんである。だから、飛行機に乗って座っているだけでももうそこは「私の居場所」であるし、1人でただ道を黙々と歩いているだけでも、「私の居場所」として、私はとっても幸福になれるのである。自分が必要としている対象と、必要とされたいと思う対象が一致したとき、そこは居場所となるんじゃないかと思う。大勢のなかで、私は彼らを必要としていないし、彼らもまた、私を1番には必要としていないだろう。裏を返せば、私は1番が欲しいのかもしれない。自分が1番を求めるあまり、それが求めるものの1番が私ではないことに、私は不満なのかもしれない。だから居場所を感じなくなる。旅は、私が1番そのとき求めていること、場所で、だからその旅も、1番に私をもてなしてくれる。そういうとき、私は惰性でなんか生きていたくないと思う。