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大学生やってます

「あこがれ」ポラロイド写真

「ずっと、あこがれさせて」「あこがれか、難しいな」読み終わったばかりの、ラスト部分のセリフがそのままタイトルになっている、阿久悠の「あこがれ」。冒頭から面白くて、終着点があやふやなまま終了してしまった感があるけれど、ある意味きちんと終わっていると言えなくもないエンドに、二十歳の女ってわからんなあ、と、21歳10ヶ月の女である私はぼんやりこの物語を反芻する。「ニューヨークの小娼婦」という見出しで始まるストーリーは、重くもなく陳腐でもないところが気に入った。非現実なのに現実味のある彼らの選択は、喜劇でも悲劇でも愉快なきもちで眺めていられる。

 

 

50歳の写真家にとって、二十歳の女は、この作品では一言も出なかったけれど、いわば「ミューズ」なんだと思う。モデル、愛人、肌寄せ、と名称がつけられているけれど、ひっくるめれば、ミューズだ。彼女は、無邪気で、無垢で、だからこそミューズになり得た。ミューズ。それはインスピレーション。像にして、自らを奮い立たせてくれるもの。芸術において、それを求めるのは条理であると思う。だけど、それは日常であるのでしょうか、と思う。ミューズはミューズでしかなく、自分のものになった途端、それはミューズではなくなる。ミューズは理想であって、自分ではない。だから、結婚などというばかばかしいことに、一緒くたになって、引き摺り込んではいけないのだと思う。

 

 

「どうしてポラロイド写真が好きなの」「1分前の私が見られるから」1分でどれだけの表情を変えることができるだろう、それはもう女心は秋の空、のみならず、くるくると回り続けるように、刻一刻と変化していく様を、どうにかぱちっと留めておくための手段。1分前の私はどんな顔をしていただろう、なにをして、どう思って、1分後の私につながってくるだろう。

写真になっちゃえばアタシが古くなるじゃない、と私の敬愛する椎名林檎嬢がうたうけれど、私は古くなる、という見方はしない、それは単なる「記録」であって、記憶とはすこし異なる。私は一枚一枚丁寧にみかえして、思い返すのが好きなんである。1分前の自分も、それがどういう状況であれ心情であれ、1日後に取りだして撫でたくなるほど、記録されたものは特別なんである。

 

写真は、撮ったひとのものだけど、ポラロイド写真は、完全に撮られたひとのものだ、という言葉が印象的です