hellobonjour

大学生やってます

そして父になるを観ましたよっと

パパはどこからパパだろう、ママはどこからママだろう、生まれた瞬間から?育っていく過程の中から?パパは一生パパかしら?パパがパパを辞めたくなったとき、パパはパパを放棄できるのか。本作ではパパはパパを辞めたくなったりなんかしないけれど、パパという存在が混濁する。パパが2人いるとは。どちらもパパで、同じようにママが2人いてどちらもママだとは。小学校に入る直前の人間に、というかまだ人間と呼ぶにも及ばないのでは?みたいな、まだ子供というには子供すぎる存在が、受け止めきれるわけがない、受け止めるには世界が大きすぎるその事実に、パパ目線で物事が進められていく。子供目線があまりない。でもそれが良かったのかも。子供目線をも映すとどうしても重くなる。重いテーマなだけにお涙頂戴感が増す。でもこの作品は、重いテーマだけれど観やすい。リリーフランキーが良いポジション。粗野でナチュラル。あまりにも粗野でナチュラルで、役柄がぴったりすぎて思ったより拍子抜け。真木よう子肝っ玉かあさんかあ、尾野真千子も肝っ玉でいけそうな気がしたんだけどなあ。福山雅治のエリート笑いが相変わらずで、別に棒読み笑いなわけではないのにおかしかった。

 

 

出来損ないだけどパパだった、6年間はパパだったんだよ、と声をかける福山パパ。血をとるか、時間をとるか。私はどちらを選ぶだろう。私がなるとしたら母だ。腹を痛めて産んだ子、自分と同じ血が流れた子供。6年間という長い時間、長くてあっという間な時間、あっという間だけど濃い時間、それを手放せるというのか。小学校6年間を忘れられるというのか、中学から高校までの6年間を捨てられるというのか、過ごしてきた時間を丸ごと他人に譲れるというのか。好きとか好きじゃないとかではなく、築いてきた関係や時間を、精算できるわけがあるでしょうか。だからといって、どうして正真正銘自分の子供を見過ごすことができるだろう。流れている血、受け継がれた血、血にはどうしたって逆らえないと思う。だって何世紀も前から流れているものだから。そりゃ環境によって人間は変わる。血より時間のものもあるでしょう。だけど本能はどうだろう。求めるものは人それぞれで、福山パパははっきりと求めているものがあったから、自分の優秀さだとかそういったものを繋いでいたかったから、だから真木よう子ママの「愛せますよ」の即答との対比が鮮やかだったのでは。尾野真千子ママの抑えつけながらも節々で漏れる感情は彼女ならでは。いつ爆発させるかヒヤヒヤわくわくさせられる。

 

 

病院側の言い分があまりにも最低でリアリティーが感じられなかった。「こちら側(病院)にも落ち度があることはもちろん認めますが、あなた母親でしょう、気づかなかったんですか?」みたいな台詞を聞いて目が点になりました。信じられない。産後すぐの母親に責任があるというの?どうしたって罪は罪を生む。人の幸福が妬ましかった女の描写がさらっと描かれていて拍子抜け。作品の中の子供たちが成長したときどうなっていくのかが怖い。またどう成長していくのか、考えるのも恐ろしい。

 

 

そして父になる」鑑賞記

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