hellobonjour

大学生やってます

2つ目の窓を観ましたよっと

山羊の首を切る場面。血が滴り落ちる流れを、叫ぶような鳴き声を、生贄と称して殺傷していく様を、いち観客の視点とスクリーン内の役者の視点で半ば茫然と眺める。「こんなことしなくちゃいけないのか」と咎めるような呟くような言い方で吐く少年のせりふに、しなくちゃいけないんだよ、と無言で応える観客としての自分と、しなくてもいいよね、いいんじゃないの、と彼の腕をとって慰めたくなるような自分、悪意のない悪意の塊(=殺傷)に嫌悪と憎悪を感じつつもなぜだか分からない解放感は、やっぱり生贄の血を見せつけられたことによるものなのかもしれない。

 

 

女なんかきもち悪い、とばかりに同年代の少女を突き放し、自分の母親をきたない扱いする少年。なんて多感でなんて傲慢、自分がいかに愛されているか気づいていないのは自分のことで精一杯だから、孤独だと勘違いしているのは自分が相手を愛そうとしないから、拒絶というやり方で世界と距離を測っている。世界と繋がることで命が繋がる。

どうしてせっかく舞台が奄美大島だというのに、東京のシーンを出してきてしまったのだろうか。「東京にしかないものがあるし、東京のパワーってものがあるんだよ」と話す少年の父親に共感はするも、なんとなく雰囲気が崩れてしまった気がしてならない。親子のやりとりに必要性を感じなかった。奄美という場所が成せる雰囲気があったはずなのに、色濃い東京というものが入ってしまえばどんなに映画の中の一部でもそれはやはりどこか東京モノになる。私が東京で生きているからなのか、悪い意味で現実に引き戻された感じがした。監督は奄美と東京の比較を映したかったのだろうか?

 

生と死がテーマだというこの映画、海を境目にして、少女は自分の母親の死を間近に、少年は自分の母親の生と性を間近に感じる。ラストの水中シーンが美しい。このシーンのための今までと言ってもいいくらいで、最後の少年の「お母さんは俺が守るんだ」とリアル感のない中二病丸出し台詞には興醒めしてしまいましたがなんとか誤魔化せるほど、海で泳ぐ裸の少年少女の姿が幻想的で良かった。奄美大島行きたいな、唄が民謡的で歌詞の意味もよく分からないのに耳に流れる。命を感じるのは、この国が島だからでしょうか。

 

 

 

 

河瀬直美2つ目の窓」鑑賞記

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